昭和51年06月18日 朝の御理解



 御神訓 一つ
 「神は声もなし、形も見えず、疑わば限りなし。恐るべし。疑いを去れよ。」

 確かに御神様は声もなし姿も見えない。けれども段々信心をさせて頂いておると、これが神の声であろうか、これが神の姿であろかと、そう思わずにはおられない体験が生まれてくる。まず神様の声も姿も耳に致しましても、まず体験させて頂くのは、神様のはたらきである。お取次ぎを頂いてお願いする。「あぁこれが神様のおかげというものであろうか」という体験が生まれます。
 神様のはたらきが分かったら次に、そのはたらきをして下さる、神様の姿があるはずだ、声があるはずだと言う事になります。神様のはたらき、それには先ず神様のはたらきが分からなければ、神の姿も神の声も、「これが神の声か、これが神の姿か」と分からせて貰う、そこに神様といつっも相対しているところの実感。なるほど神様に守られているという実感。
 その実感がいうなら有り難い勿体無い、と言う事になるのではないでしょうかね。恐るべし疑いを去れよと、神様のはたらきを知らず分からず、それを知ろうともしない、人達の生き方というか、本当に神を恐れぬ生き方。お道の信心をさせて頂くものは、その神のはたらきを感じ分からして貰い、言うなら恐るべしとありますが、いうなら恐れ入った生活が、だんだん出来てくるようになる訳でございます。いわゆる実意丁寧神信心が自ずと出来てくる。
 昨日、田主丸のむつやのお婆ちゃんが亡くなられまして6年になると、昨日は帰幽日ですから、帰幽祭をさせて頂きました。ちょうど4時の御祈念に合わせてと言う事でしたらか、お供え物やらは少し早く持って来る様にと言っていましたから、ちょうど一時間前にここにお供え物を持って見えました。ちょうど3時からの研修が始まろうとする前でした。それでいろいろとされた後に、大体今むつやにどのくらいな借金があるかと、尋ねましたら、銀行に「これこれと」問屋に「これこれ」の借金がある。
 ほぉそれでも借金するかと。それでどげなふうにそれだけの借金を持って月々に。それこそずい分賃金を払うていかなければならないが、その賃金の事を考えたら頭が重くなる。肩の荷がそれこそ重いという感じはしないかと、言う様な事を話しましたら。「親先生それが全くありません」という。今も今経理の方を従兄の田代さんの息子さん、清君が受け持ってあった。それで経理の方をそちらに任せきってある。先日も相当な金額を銀行から借りなければならなかった。
 これはこれだけの金額のことだから、兄さんが行かにゃいかんよ、社長のあんたが行かないかんのじゃないかと。いやぁちゃんとお前が行けばいいがと、おかげを頂くがというておりましたら、やっぱり良い事が進みます、先日も支払いなどはどげんなったるかと聞きや、次々とやはり、支払いも出来て行っておるし、そこにんなら「大丈夫だろうお前が行っていいが」と言う様な生き方が出来ておる。
 それはどう言う事かというと、例えば昨日15日が富久信会でした、商売人の方達ばっかりが集まる会です。もう本当に度々の事だけども、やはり商売人は商売人同志でなかなければ分からない、または商売人は商売人としての、信心というものがやっぱりあるのです。富久信会におかげを頂くようになって、非常に心が進んできた。商売をさせてもらう、いうならば信心のあり方というようなものが、度々新たな事を分からしてもらう。今度も大変おかげを頂いて帰りまして。
 帰ってきてから、御祈念大祓い信行をさせて頂いて、もうとにかく御神前で有り難うして有り難うしてという心が開けてくる。まぁいうならあの若さで、あれだけの屋台骨をを背負うて、しかもお母さんがいわゆる達が亡くなられた後、まだひ弱い一青年が荷が重すぎた。けれどもまぁ曲がりなりにも何とかおかげを頂いてやってこれた。いろんなまぁ問題難儀は、もういちいちお取次ぎを頂く。相談するものも無いから、いつもここへ持ってくるわけでございます。
 そうすると先生はどう言う事を言われるかというと、「それは信司さんあなたが汚いけんばい」と、「それで信司さんそれであんたがいっちょ大きくならなければいけないよ」と。もうこの一言だけしかないこの信司さんに対する御理解はいつも。だからほんにそうです私が汚いから私が小さいから、まちっと大きくならなんと。まぁ本当にそう頂けれる事もあるけれどもです、問題によってはお届けをして、「あぁそれは本当に困ったのう」と言う風に、言われる事を期待しておるようなお届けがありますけれども。
 「それは信司さんあんたがいけんばい」と言われると、もうそれこそ顔色がさっと変わってしまうものを感ずる時に。もう可哀想で可哀そうでたまらん気がする事もあります。けれどもここになら、甘い顔を見せておったんではおかげにはならん。昨日も例えば御直会を頂きました時に、ちょうど秋永先生の前に座らせて頂いてましたから、一緒に御直会を頂きながら、「これが例えばならむつやが、本当の繁盛のお店としていうなら、おかげを頂いたあかつきには。
 もう私が本当に若い時に修行中の時分に、どんなに難儀な問題を持っていっても、親先生が「あんたが汚いけんばい、あんたが大きくなるほかにはなかばい」としか言われなかった事が、いわば素晴らしいこれから後から信心続いてくる者にとって、どのぐらいの力になるか分からんねと言うた事でした。私が親先生から頂いての御理解は、「こういう時にこういう素晴らしい御理解を頂いた。こういう時にはこういうふうにして諫めて下さったまたは励まして下さった」というのではなくて。
 「あんたが汚いけんばい、あんたが大きくなるほかないよ」。と言いながら、なるほど自分というものを見極めてみると、あるわあるわ汚い物が一杯あるのは信司さんだけの事ではなかろうと思う。なるほど大きくなりさえすれば問題はなかろうと思う。問題があるのは自分が小さいからだと。私は昨日御霊様の御挨拶をする前、神様へ御挨拶さして頂いて、こうやって帰幽際を致しますと言うて、お届けさして頂きましたら、大きなかぼちゃを頂きました。
 これは何時も頂きます様にいわゆる、その馬鹿の代名詞のようなもんですかね、ここ辺にはあれはちったぼうぶらなかじゃろか、ありゃ馬鹿じゃなかろうかと言う様な時に使うのです。だから大きな信心と言う事は、私は「馬鹿とあほうで道を開け」と、福岡の初代はもうこれ一つでおかげを受けられたと言う事ですが。これはもう限りのないおかげの頂けれるいき方なのです。馬鹿とあほうで道を開くと言う事は、もう大きな信心と言う事なのです。どういう問題が起こってきてもそれを問題にしない。
 だからそれをお祭が終わった後にね、後細々ながらあぁしてむつやが立っておる。そして他のもう子供はおりませんから、もう亡くなってしもうとるから、やら孫が言うならば信司さんが一人だけ帰幽日を覚えている。他の者も覚えとるかも知らんけれども、ならお茶の一杯も水一杯と言うてお供えする者が先ずおらんだろうと思う。信心させて頂いてるおかげで、今富久信会から帰った晩に神様へ一生懸命今日頂いた信心をお礼申させて頂いて、大祓信行を挙げよったら有り難うして、有り難うしてという気持ちが湧いてきた。  そしてこの有り難いものも明日まで続く様なおかげを頂きたいと思うた。朝から有り難い事ばかりを思うと思うて、改めて自分のあり方してきた事を振り返ってみらして頂いたら、その都度にお届けをさせて頂いて、あんたが汚かけんばい、あんたがもうちょっと大きくなる以外ないばいと言われてきた、その一つ一つの問題が全部今日の私をここまで育てて下さる、又は今日このおかげを下さる所のおはたらきであった事を思うたら、先生一日中がみんな有り難いものになったというて、昨日お届けをしております。
 有り難い事に気付かんなおる。それが有り難い心で思わないと、有り難いものが有り難いものに伝わって来ないのです。そういう心持ちで明日はお婆ちゃんの帰幽日、まぁ自分一人でもお供えを整えて、おかげを頂こうと言う様な心も自ずと出来てくる。本当に信司さん有り難いね、あんたがそれだけの借金を抱えながら、その利払いに気にならないと言う事は。又は足らなきゃ銀行から借り入れをしなければならないと言う時にあってもです、それを真に私が行かなくても貸してくれるという。
 その信じておれると言う事は、どれだけの例えば一億なら一億の借金があっても、それはもうあなたのものだよ、それはもうあなたが神様があなたに許しなさった、それだけは十分使い廻してよいという金額だよというて昨日話しました。皆さんも例えば借金を負っておる、その借金が重んじて堪えん、利払いが心配で堪らんというのでは、それは神様からまだ許されたお金ではないと言う事なのです。
 借金を持っているけどもそれが一つも心配にならない。あぁもうこれだけの金ば借っとるけんこれだけの利ば払わんならん。それは又いっちょ頭が、利の事思うただけでも頭が重かという間は、やっぱりそれは借金なのです。けれどもそれが有り難くというか、気懸りならない位に心配にならない位にあるなら。それは銀行から借っておる金もそれは借っている金ではない、神様があなたに許しなさる。
 銀行にある金だってここにある金だって、理屈は金には変わりはないのだ。使う事を許されているならば、もうあなたの者と同じなのだと神様が許されておいられる。そういう生き方で行くならば、近い将来にその借金を払うてしまう事も出来るだろう、本当に許された、いうならば資金で商売をして行く事が出来る様になるだろう、というて申しました。今日皆さんに聞いて頂いている。
 神は声もなければ姿もないのから、見るというて見るわけにはいかん、聞く訳にはいかんけれども。信心させて頂いていると、これが神のはたらきと言わなければおられないという体験が。日々生れてくるというところから、いわゆる安心が生れてくる。その安心が神のはたらきを信じておるから、これだけいうならば安心していられると言う事になるのではないでしょうかね。
 昨日は合楽会でした。まぁ昨日は一人一人発表をされて、もう一人一人が本当に素晴らしい、あのう体験発表をなさいいました。椛目の宮崎さんが発表しておりました。先日は息子さん、いわゆる和泉君の事です、まぁ大変心配な事が起こっていた。そのためにはおかげを頂いて、夫婦のものが朝、昼、晩と言う様に参らなければならないほどしの、当に思うたらじっとしていられないというのが、それこそ朝参り、昼参り、夜参りと言う様な事であった。おかげで1と月間以上でしょうかね日参が出来られた。
 だんだん信心をまぁ本当にその事自体を思うたら、本当にじっとしておられないぐらいであった。宮崎さんの弟になられます、文敏さんと言う方が椛目におられます。そういうなかばに心配のあまりに、ここにお願いに見えた。お願いに見えたのはその事のお願いではなくて。それは親戚として兄弟として、今親方達夫婦が、金光様金光様というてから任せきったごたる生き方をする事が、はがゆうしてこたえん。
 今の内手を打たなきゃどげな事になるか分からん。だから「先生あなたはどう思いなさすですか」というて、まぁいうなら詰問のような事であった。けれどもこれは文敏さん私の信心体験からいうならば、今の兄さん達夫婦の行き方が一番おかげの頂けれる道であり。私はそれを信じているから、私の信じている事を兄さん達夫婦に聞いてもらっとる。もう男泣きに泣いてから言われました。それこそ自分の本家の事がどうなるか分からんという心配がですね。
 兄弟の方をわざわざここまで御参りといい、自分は色んな難儀な問題を起こっていると、お願いに参って見えるのです。まぁ御参りなり、又はそのう言うならこげな事で良いでしょうか、という意味で見えたのです。というほどしの事であった。おかげを頂いてそれこそ、もうご夫婦の方達が発表をされますその事を。もうそれこそ親先生のお言葉が、一分一厘が間違いがないと言う事を、長年の信心をさせて頂いておって、おかげも頂いてきたけども、こんなにはっきり分からせて頂いた事はなかったというて、感激の発表がいつもあります。それを外にはつまびらかにお話が出来ませんから。
 その実感としてもしこれがつまびらかにもし話してよいなら、おう本当にあのう、それこそ腹に泡を感じるような問題であったですからね。一生懸命夫婦のものが信心によっておかげを頂いて、最近ではまたここに御参りをして来る様になり、夕べなんかは遅くまで丸少のリーダーをしていますから、御用をさせて頂く事にもなり、もうとにかくどげん考えたっちゃね、「そればってん宮崎さん夢のごたるの、先月と今月と言うたら夢のごたるの」と言うて。夕べも話を聞きながら申した事でした」。
 ところがです、その心配がよくよくおかげを頂いたと言う頃から、お父さんが大体がここで一辺手術しておられますが、胃が悪い。それがもうさぁ田植えなんだというのに、そのう全々外には出られない痛む訳ですから。ところがもう昨日はものそのう和泉があぁた、機械を使うてもう何からかにまで、それこそ近所の者がみたらビックリするだろうとおいう、あげなあげな心配をしよんなさった和泉君が、一生懸命百姓をしよる。お父さんが家に寝とるから、お父さんの代わりを全部してくれている。
 その姿をみてお母さんが感動をしたその話を昨日されました。これが本当先月までの泉であろうかと言う訳なんです。あの時は親戚の方達やら、皆んなが注意をしてくれるようなことをしとったら、どう言う事に成っとったのだろうか。それこそ天が地に引っくり返る様な事。いうなら幸と不幸というのはこう言う時に決まるのだろうねと言うて、夕べも話した事でした。そこで宮崎さん、発表をされた後に私がそれを言うのですよ。ならあんたげんお父さんが今胃が悪くて休んどる。
 けれども朝の御祈念はこうやってお参りが出来る。いよいよ御用とおいう時には、もう痛みでどうにも出来ない。それでそれこそ山本山。あいう修行をさせて貰ったら、又今度は主人に修行をさして貰わんならん、と言う様な思い方ではただ苦しいだけである。なるほど修行といって頂きゃまぁいい様なもんだけれどもね。今日帰ったならお父さんに話しなさいって。例えば昨日なら昨日でも、お父さんの代わりが出来るほどしの、まぁおかげを頂いておると言う事が。
 お父さんが元気でやっているならば、そこまでいかんとかも知れん。お父さんが倒れているから、いわば泉君が一生懸命勤労の喜び、働かせて頂くと言う事の喜び、それをみてまた親が喜ぶまたは自分も喜べれる。そうして一日中御用を頂きながら、夜はここの御用で、夕べ遅くまで出てくると言う様なはたらきになってきている。そういうはたらきを見せて下さる事のために、お父さんが具合が悪くて休んでいると言ったら、ほんなこてしてみると、これはただの病気ではないなと言う事が分かるのじゃないか。
 そこに神の姿を見る思いがするではないか。先月の事でも今月の事でもそれは天と地ほどに変わっているけれども、どちらの姿にしても同心夫婦の者の信心をおきたえ下さろうとする、神様が先頭にたって超えない是を持って又は見えない姿をもって、言うならば信心の伝達をして下さった事が分かる。そして親先生のいわれる事が一分一厘こんなにも間違いがないと言う事が分かると言う事が、私は神の声を聞く事でもあると同時に、神の姿を見る事でもある。為には先ずは神の働きそのものを知らなければならない。
 その神の働きの言うなら実体が神の姿であり神の声である。そこに疑おうにも疑えない、いうならば恐れ入った生活が出来る様になる。恐るべし「疑えば限りなし、恐るべし疑いをされよ。」疑いだしたら限りがないけれども、自分が真実有り難うならせて頂いて、明日はひとつ本当にこの有り難いものが消えないように、明日は有り難い事ばかりを思おうと思うたら、過去の何年何十年の間の事が、ずっとこれもおかげであったあれもおかげであったと、分かるようになってくる。
 そう言う私ははたらきを受けながら、疑おうにも疑う事の出来ない生き方こそ、神様を信じて疑わない生き方。どれだけ借金をもっていても、それに頭が重くない。心配にならないで済むおかげの頂けれるところに、神を信ずる者の言うならば幸せ生活がそこにあると思うのです。これは言うならば合楽にご神縁を頂いてるほどしの人、ならちょっとここに、お広前いっぱいの御参拝がこうしてあっておるが、の1人1人は私の今の話を聞かせて頂いて、私は神様を疑っているとか。
 言わばこれを聞いた事がないとか、見た事がないとかと言う事のない人ばっかりの集まりだと思う。今日の話を聞いてみれば、改めてあれが神の声であった、あれが神の姿であった。それは日々それこそ日々に嬉しゅう有り難う、お礼の申さして頂けれるおかげの実相というものが、皆さんに実感されてきたからなんです。そういう信心の生活をいよいよ進めさせて頂いて、またそういう信心を今月今日願い祭る。
 「生神金光大神様天地金乃神様、生神金光大神様天地金乃神様」を連唱しながらね。そういういよいよ有り難いし、今月今日を頼み縋らせて頂きながら、今月今日をです、いわば今日もこの有り難いものを、頂き続かせて頂こうという願いを、心に頂きながら生活をさせて頂くと言う事が、いよいよ神様を絶対なものとして頂けれる、また絶対なおかげの頂けれる世界に、入る事の出来れるおかげを受けられると思います。
 昨日、一昨日から昨日にかけて、原さんの御理解が、もう本当にそれこそ六万八千円の徳を受けきっておられる、素晴らしいという話をしてまいりました。それで昨日また後で色々と思うてみた。ところが合楽には、七万八千円ではなくて、七十八万円の徳をうけておられる人がある。七百八十万円の徳を受けている人がある。六千八百万円のまぁ言うならばおかげが合楽教会であるとするなら、もうそれに次ぐ七百八十万円のお徳を受けておる人がある。
 七十八万円の徳を受けている人がある。ただ一段と高いところにあるけれども、例えばなら原さんの生き方を、まぁ百点満点のように昨日話したが、まぁ百点満点としてです。これにもう一つゼロを付けて行くと、七十八万円のお徳をね、いうなら原さんが百点満点を取っておられるなら、誰々さんは八十点か、七十五点か、けれどももうひとつ上の段に住んでおられる人が、誰々さんはもう一つ上の七百八十万の徳を受けておられる。けれども原さんの様に厳密ではないと言う事。
 例えばならお参りならお参りと言う事でも、一家を挙げてその一家を挙げてと言う事でも、例えばいろいろ研修の時に、みんなこうやって拾いあげてみると、本当に朝参りでもなさっている方達は、皆んなそのおかげを受けている人達ばっかりである事に、改めて気付かせて頂いた。けれども六十点とか七十五点とか、及第点すれすれと言った様な人達ばっかりであると言う事であって。だからそういう徳を受けている人が、なら原さんの様な厳密な意味においての、信心が出来られるようになったら。
 七百八十万円の徳を受けた人が、及第点をとることになったら、次には六千八百万円の徳と言う事にもなって来るだろう。ただ目が荒いと言う事だけであるというのです。例えば先ほどなら信司君に申しましたように、どれだけの借金をもっていても、それが気にならないぐらいなおかげを頂いた時には、もうそれは既にあなたのものだと言う事です。神様が自由に許されてあるのだと。そういう言わばおかげを各々が頂いているのですから、今日皆さんに聞いて頂いたように。本当に神の声をここに聞き神の姿を見る。
 それこそ信司君ではないけど、この有り難さを明日までもと、こう持ちこさせて頂いて、思うてみるとあれもおかげであったこれもおかげであったと、有り難いものばっかりになってくる。こういう気持ちにならせて頂いた事は初めてだと、昨日言うておりましたが、そういう目の詰まった生き方が出来て、なら七百八十万円の徳を。例えば久留米の佐田さんなんかの例をさきにでました。だからやっぽりまぁ七十八万円の徳が受けてあるじゃろうと。あれだけ目の詰まったあれだけの良い信心を受けておられる。
 けれどもまあだです言うなら兄弟親戚のものが、あちらの信心を引きずろうとする様な事を、言うたりしたりすると言う事実が、まだ残っていると言う事なのです。だからまだ点数が百点満点と言う事はありえない、まぁ分かりやすく言うとですよ。原さんの信心を六万八千円の意味においての、言うならば幼稚園なら幼稚園での優等生であるならば、佐田さんが小学生であるならば小学生ではまぁ二十番か三十番の所に、おられるのではないだろうかと言う訳なんです。
 したら皆さんが御存じの様にあれだけの信心。だから一人一人の上に、なら私もどのくらいのところにいるだろうかと、自分で思うてみりゃ分りもしましょうけれども、やっぱり自分もまた及第点すれすれのところだと、どこがそう言う風に目が荒いのかと言う所ををひとつ思うてみて、頂いているそのおかげに、目の詰まった生き方を身に付けていかなければならない。そういう意味で例えばなら、原さん当りの場合はもうその日その日がささやかだけれども、間違いのないその日暮らしが。
 安心して出来ておられると言う事と同時に、自分の周辺の甥っ子姪っ子にいたるまで、兄弟自分の娘の嫁入り先に至るまで、全部信心になっておられると言う事実があると言う事です。原さんが駆け回って示現活動して、回られた訳ではないのだけれどもね、なら例えば今日神戸から陽子さんが参っておられます姪子ですが。言うならばです本当にこげな有り難い信心を、神戸からでもお礼参りをさせて貰わにゃならないようなものを、何時もおかげを頂いているですけれども。
 これを煎じ詰めていきょると、善導寺のおばさんのおかげというのです。それに自分が例えどれだけの信心が、なら段階をおうてならもうちょっと、七万八千円からもうひとつ上の七十八万、七百八十万のおかげを頂いておりましてもです、その目の荒さをひとつ思うてみて、今日当りの様な御理解を頂いて今日当りの様な所でです、いわゆる恐れ入った生活をさせて貰う所からです、目ごまい信心に進んで行く事が出来るのです。
 昨日今ここで修行しています伊藤君が、こう言う事を神様に、あれは中々のいわば高度な、いわば学問をしておられますから、神様がドイツ語でお知らせ下さったりね、先日はイタリア語で、そのお知らせを頂いた。ラグゴと言う事。これはイタリア語でどういう意味かというと、「ひろくゆったりとと言う意味だそうです。次にのんきな山男ちゅうて頂いた。まさにあんたがこつじゃろう、さぁもうどう言う所に就職をしても、先日からドイツのなんとかと言う所から、就職の事をい打て来とったけれども。
 今は信心を一生懸命極めている所だから、断ったとこう言うのです。もう嫁御さんも貰わんならん。就職もせんならんけれどもそれよりも、嫁後貰う前に就職する前に、先ず本当に人間の幸せの元はどこにあるかというと、自分の心が神様に向こうていると言う事であり、その神様を頂き又は信じられる事が、幸福の原点だと分からせて頂いた時に、いうならば本気で打ち込んだ信心をさせて頂いている。
 昨日あの人が一人でそこでじっと合掌をしながら、御祈念をしているのをここからみたら、胸が熱くなって涙がボロボロ流れるんです。でけ最近頭は坊さんになっているんです。それがどういう涙かというと私は、本当に神様の喜びが私の心に映じて来たんだと私は感じたのですね。まぁ嫁御は早うもらわんならん、就職は早うせんならんと、言うならば、それこそ広くゆったりと行く道を極めていこうとしている訳です。だからもし信心のない者がそれを見たならばです、ほんに呑気な男だなぁと思うだろう。
 山男と言う事は修行男と言う事でしょう。修行人というでしょう。呑気な山男と信心の無いものやら薄い者やらは思うかも知れんけれども、いよいよ本当のところをです、自分の心に広くゆったりと、いうならば本当の意味においての、優雅な信心優雅なおかげを頂かせて頂く事の元をです、そこに求めておると言う事が素晴らしいのです。そこからいわば良い家が建ち、良い着物をきせてもらい、良い食べ物を食べられるような、おかげを段々頂くいうならば元が出来てこなければなりません。
 そこのところが出来ずしてです、いうならば六万八千円という信心が出来ずしてです、その上に打ち立てられる、お金のようなおかげは、おかげではないのです。形それはいうならば砂上の楼閣なのです。昨日大和さんが発表をしておられましたが、二、三日前お夢を頂いた。それもハッキリ頂いてから、こうしてお取次ぎを頂きましたという話をしていましたが、お夢のなかに日田の、日田ではない甘木の平田さんね。
 平田元の会長がその水の中からずっと現れてきなさった。そして一杯砂を下からここへ持って来て、これが御初穂がわりに合楽の親先生に、これこれの事をどうぞお願いして下さいというて願われた。あんまりまざまざと頂いておられますその事からです、皆さん一つ推察してみて下さい。砂上の楼閣と言った様な事申しますけれども、本当にこの六万八千円という信心の徳を元にしてそこから。
 六十八万円であり、六百八十万であるという、おかげを打ち立てたもんでなからなければもろいです。どうでもひとつ皆さんが銘々頂いておられる信心の内容にです、いうならば今日の御理解、絶対の神の声を聞き、神の姿を見、神のはたらきをそこに実感しての日々、そして喜びの尽きぬという喜びを、日に日にお礼を申させて頂けれる信心を願い、求めていかなければならんと思います。
   どうぞ。